犬 しつけ

吠え出したら止まらない

 

近頃は、新築の高層マンションが立ち並び、そのいたるところでイヌが飼われています。ダックスフントのショコラ(仮名)もその中の一頭です。ショコラはとにかくよく吠えます。

 

散歩ともなれば、もう大変です。通りすがりのイヌに吠えます。人に吠えます。イヌを連れた人だとなおさら激しく吠えかかります。

 

ショコラには、イヌとしてのボディーランゲージが身についていません。他のイヌと遊べないので、孤独になります。ショコラは孤独に耐えることができません。そこで、このイヌにとっては、吠えかかることが唯一のコミュニケーションになっているのです。

 

ショコラの飼い主の山本はなさん(仮名)は、千葉県内の訓練所でショコラに矯正トレーニングを受けさせました。訓練士のAさんが指導すると、ショコラの吠え癖は緩みました。ところが、はなさんひとりになるとまた吠え出します。

 

このように、相手によってショコラの態度はころころと変わります。はなさんに対しては「完全になめ切った態度で」接するのです。

 

困り果てたはなさんは、自宅近くのペットショップに併設されている「しつけ教室」に通うようになりました。この教室には、家庭犬しつけインストラクターが配置されており、ここ数年の流行りになっている「フードを使ってほめてしつける」スタイルを奨励しています。

 

「吠えそうになればおやつをイヌにあげてください。イヌは吠えなければ、いいことがおきると学習します。この学習を続ければ、やがて吠え癖はなくなるでしょう」。こう指導されたはなさんは、さっそくポケットにトリーツ(おやつ)を忍ばせ、ショコラと散歩に出ました。

 

数日後。訓練所のAさんが、ショッピングモールでショコラと鉢合わせしました。Aさんは訓練中のイヌを連れています。さて、ショコラはどうしたでしょうか?

 

Aさんが私に話した言葉を、そのまま再現します。

 

「エサを食べてむせながら吠えていた!」

 

はなさんは、トリーツを差し出すタイミングを間違えていました。イヌが吠え始めてからエサで気をそらそうとしたのです。ショコラが学習したのは、「吠えれば、エサが出てくる」だったのです。

 

吠えてほしくない飼い主は、イヌにトリーツを与え続ける。イヌは吠えればトリーツをもらえる上に、吠え続けることができる。学習理論の用語でいうところの、エサという「刺激」が吠えるという「反応」を強化するということです。はなさんのほめてしつける「陽性トレーニング」は、まったく機能しないばかりか、負のスパイラルに陥ったのです。

 

特別な嫌悪刺激

 

まわりに誰もいなくても、いったん吠え出したら何時間でも吠え続けるイヌもいます。

 

次は私か、中部山岳地帯のふもとの、とあるところに宿泊したときの話です。

 

あるブリーダーが、飼い主の都合でラブラドールーレトリーバーの雄を預かることになりました。夜中になって、ラブラドールが猛然と吠え出しました。吠え声には、独特のパンチカがあります。ブリーダーの言葉を借りれば、「ハンマーで脳幹を叩かれ続けているような気分」になるというから強烈です。吠えるのは、夜中だけではありません。日中も吠えます。

 

ブリーダーは、しばらくは「忍」の一字と自分に言い聞かせました。しかしさすがに耐えきれず、ラブラドールに特別な「嫌悪刺激」を与えました。イヌの体の近くで爆竹を炸裂させたのです(その炸裂音を私も聞きました)。驚いたラブラドールは、吠えるのを止めました。ようやく眠れそうだ。ブリーダーはほっと一息つきました。

 

しかし嫌悪刺激の効果は続きません。数日すると、また吠えはじめます。それも深夜です。吠え出したら、もう止まりません。そこでまた、爆竹です。このくり返しが続き、人もイヌも眠れなくなったということです。

 

この話を獣医師が聞いたら、このラブラドールの所業を「分離不安です!」と診断するかもしれません。飼い主と離れたこどで心理的に不安になっている、という症状です。ところが必ずしもそうとはいえないようです。

 

ラブラドールの飼い主は「確信犯」でした。イヌを迎えに来なかったのです。ブリーダーはあせりました。このラブラドールをなんとか他人に押し付けようとしましたが、誰も里親になろうとはしません。

 

結局、このラブラドールは、その後も「ハンマー」を打ち下ろし続けたということです。

 

こうした過剰な吠えは、一般的には″むだ吠え″というくくりで説明されています。

 

遺伝子の玉突き事故

 

「むだ吠えなんてあり得ない。過剰に吠えるのは、イヌが何かを伝えたいからだ。ただ人間がその真意を測れないだけなのだ。」

 

こんな意見を耳にすることがあります。「イヌが吠えるのには、必ず何か理由がある」という主張です。心情的には理解できます。しかし真相はそうではありません。

 

オオカミは、ふだんはほとんど吠えません。ディンゴもほとんど吠えません。かれらは短い情報のやりとりで、おたがいのコミュニケーションがとれるのです。よく吠えるのは家畜化されたイヌだけです。

 

生物学者のレイモンド・コッピンジヤーと言語学者のマーク・ファインスタインは、1991年の『イヌはなぜ吠えるのか?』という論文の中で、10分間に907回吠えたコッカースパニェルの例をあげています。

 

彼らによれば、過剰な吠えは、身体的、心理的な未熟さを意味する。そして、イヌが吠えるのは「適応的特質ではなく、目的がない」と、コッピンジヤーは主張しています。この意見には、もちろん批判があります。しかし、過剰に、そして無意味に吠えるイヌは、確かに存在するのです。

 

進化論を唱えたチャールズ・ダーウィンは『種の起源』の中で、興味深い考察をしています。 

 

飼いならされた本能が獲得され、天然の本能が失われる理由の一端は習性にあり、別の一端は人間か奇妙な心理的修正や行動を世代ごとに選抜し蓄積したことにある。ただし、そうした習性や行動が最初に出現した原因については、現状では何もわかっておらず、偶然によるとしかいいようがない。

 

ダーウィンが指摘するように、家畜化された動物には本能の質的な変化が生まれ、その行動も大きく変わっていったのです。

 

イヌが過剰に吠えるのは、おそらく間違いなく「遺伝子の事故」です。DNA解析と遺跡データによって、人間がイヌの選択交配を始めたのは、1万5000年くらい前からではないかと推測されています。「選択交配」とは、人間が意図的に選び出したイヌどうしを交配させることで、イヌの家畜化に乗り出したことをいいます。

 

吠えることで、人の注意を引こうとするイヌは、人間に寄り添いたいという気持ちが強いので、ペットとしての資質があるともいえます。人間が大型の肉食獣から身を守るためにも、よく吠えて相手を威嚇したり、危険を知らせたりできるイヌは、都合がよかったにちがいありません。

 

しかし、ヒトがイヌの遺伝子に手を突っ込んだ過程で、これまでには見られなかった新しい習性が出現したのです。

 

話をわかりやすくしましょう。一本の「遺伝子の幹線道路」があるとしましょう。抑制のきかない2トントラックの運転手(よく吠える雌イヌ)が、興奮状態のまま高速道路に入る。車間距離をとっていなかったので、間もなく前を走っていた車に衝突しそうになる。あわててブレーキを踏むが、なぜかブレーキが効かない。ハンドルを切ったとたんにスリップし、次々と車にぶつかっていく。勢い余った2トントラックは横転し、荷台に満載していた新製品(吠える癖)を散乱させ、路面を覆い尽くす……。

 

現実の生殖の場面において、どういうことがおこるのか、数値で示してみます。仮に、よく吠える雌イヌが、生後1年半で最初の子供を身ごもるとします。出産までは長くても70日です。一度に生まれる子イヌは、ふつう4〜8頭。オオカミやディンゴの雌は、年1回発情し、出産も年に1回しかできませんが、家畜化されたイヌは、年2回の出産が可能です。

 

子イヌが雌なら、成長後にまたその子供が生まれます。雌雄の比率はやや雄が多いので、生まれる子イヌの4割は雌イヌだとしましょう。自然淘汰が働き、生まれた子イヌの4割が生き残れないとしても、わずか5年間で、たった1頭の雌イヌから、吠える系統のイヌが、ざっと2000頭は出現するのです。

 

この話にはおまけが付きます。研究によれば、よく吠える犬種とほとんど吠えない犬種を交配させると、生まれた子イヌは、よく吠える親イヌと同じくらい吠える傾向があることがわかっています。たとえば無口なバセンジーのようなイヌでも、多弁なコッカースパニエルとのあいたに子をつくれば、子イヌはおしゃべりになるのです。つまり、吠える性質の遺伝子は優性である可能性が高いということです。

 

こうして地球上の各地でたまたまおこった、遺伝子の玉突き事故による末裔たちが「むだに」吠え続けているのです。

 

麻薬のような幸せ化学物質

 

しかし、ここで疑問はいっそう深まります。イヌはなぜ吠えるのか?

 

ペンシルバニア大学の獣医師のジェームスーサーペルによると、吠えると神経伝達物質ドーパミンの放出が高まるということです。

 

ドーパミンは、「幸せ化学物質」とも麻薬物質ともいわれ、人間の場合、スポーツや音楽に感動したときや達成感を得たときに、脳内で放出されます。また、この化学物質は恋愛に作用しているという意見もあります。MRI(磁気共鳴映像法)を使用した研究で、恋愛中の脳内ではドーパミンの濃度が上がっている、と報告されています。

 

心臓がドキドキするのもドーパミンが関与しているというのです。その一方で、薬物依存との関係も指摘されています。タバコや麻薬、アンフェタミンなどの覚醒剤は、ドーパミンを増やす効果があるため、いったん手を出すと、やめたくても簡単にはやめられなくなるということです。さらに、ドーパミンの濃度が上がると、同じ行動をくり返す強迫神経症になるという見解もあります。

 

イヌたちにとっては、おそらく吠えること自体が楽しいのでしょう。ドーパミンが多く放出されることで、まわりを不愉快にするとわかっていながら、「やめたくてもやめられない」ということなのかもしれません。

 

前代未聞の事件

 

過剰な吠えは、人々のストレスを生み出し、イヌの問題行動の中心の一つとなっています。

 

自治体の窓口への騒音に関する苦情の中で、イヌの吠え声の比率は軽視できない、という声も聞きます。

 

吠え声以上に、深刻なトラブルをひきおこしているのが、咬みつき事故です。

 

次に、きわめて「珍しい」直近のトピックを紹介しましょう。

 

狂犬病の予防注射の会場で、イヌが咬み殺されるという事件がおきました。被害にあったのは、2歳の雄のヨークシャー・テリアで、愛知県内で行なわれた予防注射の際、後ろに並んでいた雑種の中型大に、頚に咬みつかれたままふりまわされたあげく死んでしまったというものです。その雑種犬は、ヨークシャー・テリアの5倍もの体重があったといいます。

 

ヨークシャー・テリアの飼い主は、「市側には、イヌが興奮して暴れないよう飼い主に適切な指示を与えたり誘導したりする義務があった」と主張し、市と咬み殺した中型犬の飼い主を相手取り、約140万円の損害賠償を求める訴訟をおこしました。訴えられた市側は「イヌどうしが接触しないようにするのは飼い主の義務」と反論し、中型犬の飼い主は、「相手のイヌが近づいてきたのが原因だ」と言って、請求棄却を求めたということです。

 

三者三様、あまりにもレベルが低いと言わざるを得ません。愛するイヌを亡くした飼い主のつらい気持ちはわかります。しかし問題は、中型大が社会化されていなかったことであり、市の職員の誘導ミスなどではありません。また、市側か求めるべきは、「イヌどうしが接触しないように」ではなく、「接触しても平気でいられるよう社会化しておくように」です。

 

さらに、咬んだイヌの飼い主が、「おまえのイヌが近づいたからわるい」と言っているのは、もってのほかです。それにしても、狂犬病の予防注射の会場でイヌが咬み殺されるというのは、前代未聞の事件です。

 

散歩中の男性を襲った土佐犬が、警察官に射殺されるという事件もおきています。飼い主の男は、土佐犬愛好家の団体に所属していて、これまでに4頭の飼育経験があり、自宅の敷地内に手製のフェンスをつくってイヌを飼っていたということです。しかし捜査が進むにつれ、飼育管理のずさんさが明るみに出ました。

 

フェンスの高さは1.4m、囲いの中は縦3.5m、横2.8mだったということですが、土佐犬の飼育スペースとしては狭すぎるのは明らかです。また、高さ1.4m程度のフェンスでは、身体能力が少し高い大型犬なら、簡単に乗り越えられます。しかも警察が検分した際、フェンスの一部が低くなっていたと報告されています。

 

報告されている飼育環境からいえることは、このような人物に土佐犬を飼う資格はないということです。咬みつきが人間の死亡事故に直結する土佐犬のような闘犬種のあつかいには、いっそうの慎重さと管理能力が問われるのです。

 

特定の人だけを襲うイヌ

 

それは、ある「犬のふれあい施設」で起こりました。清掃スタッフの男性が、同じボーダー・コリーに4度も咬まれ、そのたびに顔面の皮膚が裂けて鮮血があふれ出したというのです。

 

私は現場に赴き調査をしました。すると、きつく巻かれすぎた首輪が、ボーダー・コリーの頚にめり込んでいました。

 

施設管理者の判断で、獣医師の力を借り、その首輪を外してみると、頚部の皮膚上皮には、蛆がわいていました。蛆虫を発見するために、この獣医師は吹き矢を使ってイヌに麻酔をかけなければならなかったのです。長いあいたストレスを抱え込んでいたわけですが、その攻撃的な態度のため施設スタッフの誰もがボーダー・コリーの首輪を外せなかったということです。

 

このボーダー・コリーは、神経系の障害を持っていたのかもしれません。片目だけアイスブルーで、焦点が定まらないような目つきをしていました。何らかの先天性の疾患があった可能性もあります。

 

咬まれたのは清掃スタッフだけだということです。ボーダー・コリーが同じ人間を4度も襲ったのはなぜか? 私はそこに関心を持ちました。清掃スタッフは見たところ温厚なタイプです。特徴はいつもつばの広い帽子をかぶって作業をしていたという点です。

 

ボーダー・コリーには、過去に何かトラウマがあった。たとえば、子イヌ時代にこの清掃スタッフと見かけの似た(帽子をかぶった)男に虐待された、というのが、ありそうな来歴ですが、あくまでも直線的な推測の域を出ません。

 

私はこのボーダー・コリーの隔離犬舎にひとりで入り、清掃と給餌を試みました。やや警戒するようすは示したものの、はたして私に対しては攻撃的な態度を見せませんでした。

 

次に入ったときは、突然跳ね上がったかと思うと、まるで見えないフリスビーを追うように垂直跳びをくり返しました。単調なジャンプを何度も試みるのです。イヌの視線は、私のほうには向いていませんでした。

 

結局、このボーダー・コリーの「特定人物襲撃」の原因はよくわかりませんでした。それにしても、首輪について、どうしてもう少し迅速な対処ができなかったのか、腑に落ちません。